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日本酒の会 sake nagoya 「冨田酒造見学」の報告

日程 2008年3月2日(日)
酒蔵 冨田酒造(滋賀県伊香郡木之本町木之本1107)


七本槍の冨田酒造のある北国街道は春の陽に溢れていた。屋根からは雪解け水がしたたっている。雪が残っているが多くは溶けてしまっている。
街道に面した冨田酒造は人が溢れていた。店舗の前には車が並び、ガラス戸の中には入れそうもない。

店舗の前には酒林が下げられ、入り口のガラス戸には酒粕に張り紙がされているのが季節を感じさせる。
左の格子の中には戦前のものと思われる陶器製の一斗樽が展示されている。右から左に書かれている銘柄を見ると「七本槍」と書かれている。前から「鎗」なのか「槍」なのか解らなかったが、どうやら木偏が古来の表示のようである。「鎗」は魯山人の書体・もしくはロゴと考えればよいようだ。

見学の時間まで北国街道の町並みを歩いてみることにする。

北国街道と呼ばれる街道には二つあるようで、一般的には長野県の北部から新潟県の直江津(上越市)で北陸道に合流する街道を指すことが多いようだが、この北国街道は、滋賀県北部の琵琶湖東岸を南北につないで福井県の今庄町で北陸道につながる街道である。
福井県と滋賀県の県境では栃の木峠は、戦国時代の武将柴田勝家によって整備されたそうである。
織田信長の後継者の地位を巡り、豊臣秀吉と対立した柴田勝家は天正十年(一五八二)に賎ケ岳で秀吉軍と戦った際、栃ノ木峠を越えて賎ケ岳に向かったそうである。
賤ヶ岳の七本鎗は、賤ヶ岳の戦いで武功を挙げた福島正則、加藤清正、加藤嘉明、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糟野武則の若武者たちである。
勝家側の佐久間盛政の部隊に、秀吉の旗下七人衆が斬りこみ一番槍の功をたてたのが七本鎗である。銘酒「七本鎗」も名前もこの誉れに拠っていることは言うまでもない。

北国街道は、その後江戸時代を通じて若狭と近江を結ぶ街道として栄え、木之本の街道に沿っては味噌・醤油・酒蔵が軒を並べた場所であり、今も味噌・醤油・酒の店がある。
街道を歩いていると清酒翠天 朝香酒造の看板が掛かった酒蔵らしき家があったが、今では造っていないそうである。以前は三つの酒蔵が造っていたが、現在は七本鎗と「北国街道」の山路酒造だけである。山路酒造は、古くから旅人の滋養飲料として好まれた「桑酒」が有名で、近江米と麹と桑の葉を独特の方法で焼酎に漬け込んだものである。

店のすぐ前にはこの街道が歴史的なものであることを証明するように、蓮如小人御𦾔跡の大きな脊柱が建立されている寺がある。旧跡の旧が旧字体なのだが人偏が多いが矢張り𦾔と読むべきだろう。

冨田酒造の店舗の右側には、「冨田八郎家」の立て札がある。
先祖は北近江の近江源氏だが、「天文2年(1533)当地に移り住み、爾来造り酒屋を営む傍ら庄屋をつとめ、教育、産業、福祉等地域発展に尽くした。
明治天皇北陸ご巡幸の際、岩倉具視が宿泊。母屋は延享元年(1744)建、軒下柱馬繋ぎ金具に宿場の面影を残す。」と書かれている。
冨田酒造は戦国以来の名家なのである。

ガラス戸を開けて中にはいると、ガラス戸の柱に歴史を物語る年輪が浮き出ている。

店舗の右は、古の勘定場であろうか、畳敷きであり、今は生け花置物等が展示されている空間である。

正面には七本鎗の銘柄が勢揃いしている。

その左は、現在の勘定場で、縄暖簾の上には魯山人の「七本鎗」の変額が掲げられている。

使用している酒米の展示。
右端が19BYから使い始めた「渡船」である。
左端の山田錦より更に背が高いのが解る。

いよいよ先客の見学が終了し、日本酒の会の蔵見学の始まりである。
店舗左側の道路のシャッターから蔵に入る。

酒造工程とは逆の流れで見学を行った。

シャッターを開けて直ぐ目の前に、瓶詰めの場所がある。
洗瓶、瓶詰め、火入れの工程である。
火入れを行う可成り大きな水槽である。

井戸水は山からの伏流水で、軟水。年間を通じて15度で夏は冷たく、冬は暖かいそうである。仕込みも当然この水で行っている。

飲んだ印象は確かに軽く透明度の高いものであった。

 

 
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